矛盾は・・・してないと思います。
そういう処理をしてくれる人がいるから、その人に任せてるけど
実際、そういう人がいなかったら「可哀想」なんて言わずに
狩りをするでしょうし。そうやって生きてきたんですし。
実際、豚を食べたいなら「豚を捕まえてさばけ」って言われて
部屋に豚数匹と調理する道具を置かれて放置されたら
何日かは可哀想とか殺したくないと我慢するけど
食べるものがそれしかなければ、空腹に耐えかねて、感情を消しさって
生きるために、捕まえてさばいて食べると思います。
豚じゃなくても、ヘビでもネズミでも。
要は「慣れ」じゃないですかね。
一匹さばけば慣れるでしょう。そんなもんです。
魚を捕まえてさばいて食べるのと、なんら変わらないと思います。
まぁ、私は魚もさばけませんが・・・(笑;)
こんな時代で、動物がペットとして可愛がられて
自分で狩らなくても食べれる時代に育ってる人間に
いきなり、逃げ惑う動物をつかまえて何頭も流れ作業的に手際良くさばき続けるその映像を見せても・・・。
初めてみて「可哀想」っていう言葉が出てきてもおかしくはないし
それで食うか食わないか選択しろ。っていう方が
間違ってる様に思います。
ちなみに、ソーセージの作る過程も結構キますよね。
小腸に肉をつめていく工程を初めて見たときは、衝撃的でした。
でもやっぱりおいしいので。
食べれますね。
===補足===
ベジタリアンになれば、牛や豚たちが食肉用に殺されない訳でもないし。という
考えもどこかにあるからですかね。
・・・後付の言い訳に聞こえてしまうでしょうか。
ベジタリアンや、そういった理由で肉を食べない人を見ても
「自分さえ食べなければそれでいいのかい?」っていう疑問もあります。
自分が食べなくたって、可哀想なものは可哀想ではないのかなぁ?と。
むしろ、食肉として殺された動物が、食べられずに廃棄になってる事も
可哀想な気さえしてきます。そっちの改善の方が先な気が。
動物にも、おいしく食べてもらえる「幸せ」ってないですかね?
・・・人間のエゴですかね。
すでに食べれる状態になった肉の塊を見ても「可哀想」とは思わないです。
ただ「さぁ。ここにいる好きな牛を一匹選びなさい。目の前でさばいておいしい肉を食べさせてあげるから」といわれたら
他の選択肢があってもなくても私は頂くのを断ります。可哀想で見たくないので。
でも、釣った魚はその場で食べたことがありますね。
可哀想という感情は沸かなかったです。
魚には鳴き声がないから?わからないですが。
矛盾してますかね・・・。
なんにせよ。「可哀想」っていう理由だけでベジタリアンになれるほどの意志はないので
色々理由をつけて、矛盾も正当化してるのかも。